2014-09-25

大学スポーツは人間を育てているのか?

 大学スポーツが日本の競技スポーツの土台となっているのは言うまでもありません。「教育現場だからスポーツ活動を優先するのはちょっと…」というのは,キレイ事であって大学スポーツの存在があるからこそ,大学そのものの社会的認知度に繋がっている大学もある筈です。大学スポーツは大学の広報活動の一部として明確な市民権を得ている今日。スポーツ活動に関するページの無い大学パンフレットやHPなんて見たこと無い。

 未だに大学スポーツは部活動なのでしょうか?部の活動を通じて,社会性や友人関係,教科指導の範疇では指導ができない知識や経験を身につけることができるというのは,もはや大学スポーツレベルでは追い付かなくなっているのではないでしょうか?先輩後輩関係,同窓会などに労力を費やす価値やエネルギーも競技現場では扱えない事項であると分かっているので,完全に別な存在として独歩している結果。それだけに大学スポーツに携わる人間の不祥事も年々多くなっているのかもしれません。都合良く師弟関係を強調する指導者,一般社会では受け入れられない言動であっても学校だから,スポーツをしているからという理由にならない理由を述べる。本来,学生がするべき事柄を疎かにしたり,学生の競技力に対して過剰な評価をしようとするのがソレです。

 中学,高校のように義務教育レベル(高校は違うけど)でも,部活動に期待される教育的価値やその存在は変化している。『競技成績を向上させて,将来プロ・アスリートとして活動していきたい』と自身の能力に期待する彼らに,部としての活動をしている意識は無いのでは?指導している立場の人間も学生アスリートがいるからこそ,自身の生計が立てられるわけであって,純粋に『良い人間になって欲しい』と願って競技力向上に携わっているかは懐疑的。しかし,自分が指導している学生アスリートに対して,『良い人生を送って欲しい』と思う指導者はいるはずです。
 

 競技活動を通じた教育的指導をするなら,従来の部活動とは異なる価値,答えを出していくことが現代の大学スポーツが社会に貢献していると言える新たな課題ではないでしょうか。そういう世間にならなければ,“スポーツを経験した良い大人”は育たない。

 競技スポーツ活動がより国際的,または興行的カラーが濃くなるほど,競技以外の活動については,学生アスリートとして何らかの制約を設けない限り,“学生アスリートだから”という言葉はそのうち死後になるかも。今後,そういった現象はより若年化していく懸念もある。ある面では学生や教育と言う。一方では広報活動の一環として扱われる。

 日本の大学スポーツにもルールの再構築が求められる時代。